AQIT誕生秘話
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1. 始まりは東京五輪
挫折から始まったイトマンスイミングスクール誕生秘話 -
1992年バルセロナ五輪出場の加藤真志選手
これまで数多くのオリンピック代表選手を輩出してきたイトマンスイミングスクールは、1972年創立の名門スイミングクラブである。だがその歴史は大きな「挫折」からのスタートであった。 その挫折とは、今からおよそ半世紀前。1964年に開催された東京オリンピックにまでさかのぼる。
1936年のベルリンオリンピックで金メダルに輝いた前畑秀子を始め、かつて日本の競泳は「お家芸」と称されるほどの栄華を誇っていた。もともと日本は、四方を海で囲まれた島国であり、豊かな河川も持つ。日本人は長く水に親しんで暮らしてきたこともあり、古くから競泳大会が開催されるなど、環境や条件に恵まれていたのである。しかし第二次大戦後、世界の競泳レベルが向上。欧米人選手たちはみるみる記録をあげていき、やがて日本人選手を凌駕することとなる。そして、その差をまざまざと見せつけられたのが、東京オリンピックだったのだ。
自国開催となった東京オリンピックは、それにふさわしいだけのメダルを日本にもたらした。金メダルの総数はなんと16個。 柔道の3個の金メダルを始め、レスリングの5個、「東洋の魔女」と呼ばれてその圧倒的強さを見せつけたバレーボール女子、そして体操男子団体総合とメダルラッシュに沸いた。 その一方、活躍を大いに期待された日本競泳陣は、男子フリーリレーチームの銅メダル1個に留まった。そこにかつて世界記録を連発していた面影はなかった。
奥田前会長の挨拶
1978年西宮校オープン記念式典にてこの東京オリンピックでの敗北は、日本の競泳界が、文字通り、世界に大きく水をあけられている事実を突きつけるものであった。そんな中、この結果を不本意と受け止め、日本競泳の再興を決意した人物がいた。大阪に本社を置くロート製薬元会長の山田輝郎である。「日本競泳界の起爆剤となりたい」――その強い思いを胸に、山田は10億ともいわれる私財を投じて、同社敷地内に室内25メートルプール2面を設置。オリンピックメダリスト輩出を目的とした「英才教育」を施すスイミングスクールを設立する。これがイトマンスイミングスクールの原点となる「山田スイミングクラブ」である。東京オリンピックの翌年、1965年のことであった。
山田がここで試みたのは、科学に基づいた論理的なトレーニング方法の確立である。当時はまだまだコーチの「経験」と「勘」に頼りがちの指導法が主流であった。山田はそれを改め、より客観的、かつ効率的なトレーニング法を見出すことによって「世界一の泳法を究める」ことを目標に置いた。そして「世界一の泳法」を目指すために、山田のもとに集結した人物の一人が現イトマンスイミングスクール会長の加藤浩時と前会長の奥田精一郎である。加藤は、主に中学生以上の生徒を担当した。当時は陸上競技でしか実践していなかった負荷による心肺機能向上のための練習「インターバルトレーニング」を競泳に取り入れ、主に中学生以上の選手のそこから得られる膨大なデータ収集をした。奥田は、学童期の選手に対して食事などの生活面から管理。基礎体力の養成を図った。練習については常にレースに近い感覚で臨む短距離集中型を採用。精神面においても一流になるために、高い目標を見据えて努力する姿勢、常に自己管理意識を持たせる指導を行った。その加藤、奥田らのもとで指導を受けた選手の一人に、後にメキシコ・ミュンヘン・モントリオールの3大会連続オリンピック出場・入賞を果たした西側よしみがいる。
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2. 世界一の泳法を究めよ!
原点「山田スイミングクラブ」の挑戦 -
こうして、山田のもとに集結した選りすぐりのコーチ陣を柱に「山田スイミングクラブ」が始動する。「世界一の泳法を究める」とは、「体格」「泳ぎ」「練習法」のすべてにおいて「世界一」を目指すということである。そこで、選手選びにも斬新な方法が採られた。すでに実績のある優秀な選手に声をかけるのと同時に、全国の小学校に協力を仰ぎ、健康優良児を紹介してもらったのだ。日本人が世界に勝つためには、競泳の経験の有無以前に、なによりもまず体格差を克服しなければならない。そこで、体格がよく、かつ柔軟性の高い児童――「原石」の発掘も行ったのである。
一方で、トレーニング環境も最新のものが整備された。特筆すべきは「水中撮影法」と「無線指導機」の開発である。水中での選手の動きをいかに正確に記録し、それをどうやってリアルタイムに選手に伝達できるか。この二つの課題は、競泳指導における永遠のジレンマといってもいい。プールの中に入ってしまうと、選手とコーチとの間には「水」という物理的な壁が生まれてしまう。直接的なコミュニケーションの取れない状況をいかに突破していくかが、記録向上の鍵であった。 東京オリンピックの雪辱を果たすという「山田スイミングクラブ」の執念は凄まじいもので、1秒間に150コマから200コマも撮影できる超高速カメラまでも設置したというから驚かされる。コンピューターもまだ発達していない1960年代に、ここまでの設備を備えたプールは世界中のどこにも存在しなかった。
1979年王寺校オープンの様子
「日本競泳界の起爆剤となりたい」「世界一の泳法を究める」――その一心で作りあげられた「山田スイミングクラブ」は、気がつけば日本の競泳界をけん引する存在となっていた。そして、1972年ミュンヘンオリンピックで所属選手の青木まゆみが金メダル獲得。同年に、山田スイミングクラブは一定の役割を終えたとして解散。その思想やノウハウは、中心として指導にあたっていた加藤、奥田らに引き継がれていくことになる。こうして同年、加藤と奥田は早稲田大学の同志でイトマン商事に勤めていた塩川美幸前社長と共に「イトマンスイミングスクール」を設立させた。
しかし、スクールの経営は容易なものではなかった。当時は習い事としての水泳は知名度もなく、なかなか会員が集まらなかったのだ。第1号店である大阪・玉出校をオープンさせたものの、早々に経営難に苦しんだ。選手強化と企業の存続――。一流の選手に育てるためには、個人の指導・技術だけでなく時間と財力も必要であった。そのため、塩川には必ず両立させるという強い思いがあった。そこで塩川は「水泳普及型」の営業と「トップ選手の育成」の2つの軸を経営基盤にした。まずは地域の認知度をあげるために幼稚園・小学校向けに出張型の短期授業を展開。また、広告宣伝も裾野を広げた戦略に置き換えた。同時に選手のスカウトも次々と行い、徐々に玉出校の会員数は増加していった。経営が回復したのち、奈良、西宮と店舗を拡大していくことになる。
2004年アテネ五輪
銅メダリスト奥村幸大選手以降、イトマンスイミングスクールは1976年のモントリオールから1996年のアトランタまで連続5大会、代表選手を輩出。そして2000年、シドニーオリンピックにおいて中尾美樹が女子200メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。さらにアテネオリンピックでは山本貴司が男子200メートルバタフライで銀メダル、400mメドレーリレーでは奥村幸大と共に銅メダルを獲得。イトマンスイミングスクールとしての2大会連続でのメダルが、両選手によってもたらされることになった。
そして続くロンドンオリンピックでは、入江陵介が大活躍を見せた。男子100メートル背泳ぎで銅、男子200メートル背泳ぎで銀、そして男子400メートルメドレーリレーで銀メダルを獲得。「27人でつないだタスキ」という言葉が、日本中に大きな感動をもたらした。こうしてイトマンスイミングスクールは、通算34名ものオリンピアンを送り出す名門へと成長していったのである。
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3. 2016年5月、日本初のオリンピック仕様公認競技用プール
「AQIT(アキット)」誕生! -
イトマン東進所属の入江陵介選手
しかし、これでイトマンスイミングスクールの挑戦が終わったわけではない。2008年、同スクールは東進ハイスクール、四谷大塚などを運営するナガセグループの一員となる。イトマンスイミングスクールの社長となった永瀬昭幸は、「独立自尊の社会・世界に貢献する人財を育成する」という同グループの教育理念を、イトマンスイミングスクールにおいても基本理念に据え、水泳を通した体育教育により心と体を鍛えるというミッションを明確にした。とりわけ選手クラスの指導においては、世界を舞台に挑戦する主体性と創造性をもつ「リーダー」を育成するという思想のもと、スポーツ理論に基づいた環境設備を構築した。その証しのひとつとして、永瀬は東大阪強化校という世界に類を見ない練習施設を開校。最先端設備による選手の育成にまい進してきた。水中・水上の6方向に設置されたカメラで選手の泳ぎを追尾する「泳法解析システム」はその最たるもので、全方位的な解析を実現させたものだった。
2013年9月、ブエノスアイレスで行われたIOC総会で、2020年の夏季オリンピックの開催地が東京に決定した。この時、永瀬の脳裏に浮かんだのは1964年の東京オリンピックでの競泳陣の惨敗であった。財務、少子化、国際競争力などにおいて、長らく自信を失った日本に、勇気と誇りを取り戻したい。日本競泳界をリードする立場にある当社が、今こそ行動で示し、責任を果たす時だ。永瀬がよく口にする言葉に、「知行合一」がある。永瀬は、まさにこの言葉の通り、選手強化施設の建設を決意し、実行に移した。
そしてそれこそが最新にして最大規模の練習施設である「AQIT(アキット)」である。今春東京多摩市に建造されたAQITは、敷地面積4900平方メートル。内部には、50メートル×8レーン×水深3メートルのプールを擁する。これはオリンピックで使用されるプールと同じ条件を満たす、日本初のオリンピック仕様の公認プールということになる。さらにイトマンスイミングスクールの独自のノウハウを結集した「泳法解析システム」を完備。また、オメガのスタート台を設置するなど、細かな備品に至るまでオリンピックで使われているものを用意した。つまり、選手たちが本番さながらのプールで練習を積むことができる配慮が全体になされているのである。 オリンピックと同じ環境でトレーニングできる施設が少ない――もともと日本の競泳界には、そんな課題があった。とりわけスタート技術を向上させるためには、水深3メートルという条件が欠かせない。例えば、スタートとターンでのバサロキックを不得手とする入江陵介にとって、AQITという環境は課題克服のための最良の場所となる。これは入江に限らず、多くの日本人選手にとっても福音となる。
そのためにもAQITは、日本競泳界の「公器」としての役割を担っていくことを謳っている。つまり、巨額の資金を投じたイトマンスイミングスクールが独占して使っていくのではなく、所属クラブを問わず、広く日本人トップスイマーたちに門戸が開かれるのである。公器としての位置づけは、AQIT構想の初期段階から変わらず、その理念の根幹を成すものだ。かつて、山田輝郎が私財を投げ打って日本競泳界の再興を目指したように、AQITもまたそこで利益を得ることは考えられていない。
こうして迎えた2016年5月。AQITが遂に完成した。8月のリオデジャネイロオリンピックを見据えてのオープン。そしてその先には、もちろん2020年開催の東京オリンピックがある。現役選手の強化はもちろん、次世代の子どもたちの育成にAQITがどれほど貢献できるか。世界が注目しているといっていい。
誰もがすぐに始めることのできる競泳は、すべての子どもたちが夢を追うことのできるスポーツである。日本中が注目するスポーツである水泳を通して、子どもたちを世界に通ずる人財として育成し、将来の日本、あるいは世界を担う人間として育てることがAQITの理念でもある。 1972年の創業以来、イトマンスイミングスクールは常に日本の水泳界をリードしてきた。それは、スイミングスクールとして日本一のオリンピック代表選手を輩出し、世界の第一線で活躍する選手を育てることで、多くの人々に希望と勇気を与えたいという使命感があったからだ。
振り返ってみれば、「山田スイミングクラブ」創設者の山田輝郎が成し遂げたことも、全国の子どもたちに夢を与える偉業であった。そして山田の意思を受け継いだイトマンスイミングスクールは、さらなる大きな進化を遂げてAQITという世界最高レベルの練習施設を多くの選手に開放する。半世紀前の東京オリンピックでの雪辱を果たすべく、新たな挑戦への一歩を踏み出すために。